◎ オプティック・オグラ 88年コンテスト投稿デザイン
88年(昭和63年)に眼鏡チェーン店のオプティック・オグラが一般やデザイナー志望の人々に対して募集した、メガネやサングラスのデザインコンテストへの作品です。
当時大学中退したばっかりで、その後の方向性などまだ悩んでいた時期でもあったんですが、当時自分はまだメガネをかけていたのと(ていうか、今も視力は結構悪いですが、面倒くさいのでかけてません)、かけてたメガネがオプティック・オグラのメガネだったので、送ったものです。
当時はDCブランド全盛だったので、それに対応した感じのデザインになってます。手元に残っていたのはモノクロコピー(画像)だけなのですが、シンプルなカラーなのでCGで色付け直してみました。
左の作品は、下のE9(Eg)89年版と同じく、フランス革命200年が近いという事で、チタンシルバーとブルーとレッドのトリコロールカラーのデザインです。当然フレームはチタン。赤と青を入れ替えることでカラーバリエーションになるというもので、目じりの半球を中心に回転させてたたみます。デザインは・・・なんというか、目じりの部分が横から見た眼で、ジグザグラインが電光というかイナズマというか、視神経を表現したものです。まぁ、コンセプトとしては面白いと思います。
右の作品は、完全に女性向けで、女性の唇の形と、リップスティックをデザインに取り入れたものです。ピンクはクリアピンクでもいいかなと思ってデザインしてました。ピアス穴を開けたくない女性用の眼鏡という感じです。
若干キューブリック監督の「ロリータ」でヒロインがかけていたハート型サングラスのイメージも入っています。わかってもらえたかどうか。若干べっこうブチの昔の眼鏡もイメージしています。
どちらもフレームは細いんですが、これは当時細いフレームが流行でメガネメーカーもそういうのしか作ってなかったから合わせました。
コンテスト的には没だったのですが、自分的には気に入っているので、後にIGタツノコの社員募集に送ったり、ゲーム会社の社員募集に送ったりしたりしました。
くちびるモチーフの眼鏡は、実際にその数年後、90年代になって何年かたってからオプティックオグラが高額ブランドフレームシリーズを作った時にデザインされ市販されています。また、「トライガン」の主人公、ヴァッシュ・ザ・スタンピードも、ジグザグフレームの眼鏡をかけていて、懐かしいなぁ、と思いながら見てました。片付けしてたらデザイン画出てきたので、更新。
◎ リカ・ジェニー ファッションデザインコンテスト投稿分(88年5月)
88年にリカちゃんとジェニーのファッションデザインコンテストというのがあって、それの投稿分。
白黒コピーしか残ってないので、ペイントソフトで色を戻しました。これで合ってると思う。
ハガキ応募だったのと、そもそも男子なのでリカちゃん人形など当時は持ってなく、
女の子の人形にこういうドレスがあればなぁ、というイメージはあったものの、人形自体を持っていなかった上
いわゆるリカちゃん位の年齢の女の子をイラストやコミックでろくに描いた事がなかったので、
顔の描き方など抽象っぽくなってます・・・。そもそも人形の身体のバランスってモデルなしで描くと難しかったんだよ・・・
リアル頭身ブームの頃だったし、そもそもその年頃の少女絵をそんなに描いたことが無かったので。
服のデザイン自体は楽しいと思うんだけど。
左はすかし編みのオフショルダーのサマーセーター+タンクトップに、後ろに花柄カットワークの入ったスカート。
右はオレンジイメージのプリントTシャツに、すそVラインのデニム生地ボトムスです。腕時計つき
割と活動的で、左は当時の流行りなんじゃないだろうかと思いますが・・・難しいなぁ実現が。
実は下のEg(E9)の眼が三角形になった理由は、この頃(87~88年頃)ボクがキャラクターの眼を描くと、
なぜか円じゃなく逆三角形になる事が、ほとんどだったから、というのもあります。
というか身体感覚に従って描くとなぜかそうなってしまったので・・・
で、宇宙人みたいなキャラになっちゃうなと思っていたし、実際他人にもそう言われていたので、Egの眼はああいう形になっていきました。
左のTシャツのプリント柄が、よりボディラインにそう事で下の89年版Egの胸部デザインの方向性につながって行きました。
(この項目、2023_4/8 2:33~49)


◎ Eg’89年版 '89年1/7
(年賀状イラスト&ラフ。IGタツノコ&某美少女系ゲーム会社宛など投稿 )
Egの最初のデザインは85年2月頃(11月頃?ページ作りました。コチラ参照)のB5サイズの原稿だった頃で、最初から「幼稚園にひょんな事から住み付くようになった宇宙ロボット(生命体)という設定自体は全く変わってなかったのですが、デザイン的にはその後延々と変化を繰り返しているオリキャラです。
イラストは89年の、丁度昭和天皇が崩御された日とその前後に書かれたもので、桃高の漫研で一緒だった橋○(1妄田)君(後に学校の先生になったと聞きました)に送った年賀状(のお返事)に書いたものです。ラフが1/4,年賀状が1/7なので、もろにその時期(相手に届いたものには、だから消印ついてると思う)。僕の昭和最終デザインとも平成最初のデザインとも言えます。
ただ、このEg(現E9)の場合設定自体が多少異なってて、神話世界の少年と少女が次元突破する時にこの姿になって戦っては元の神話世界に帰って来る、というそういう設定です。カラーコピーを取ってあったので、IGの社員バイト募集にその月中(閉めきりが1月末だった)に手渡しに行ったりしました(発送、じゃなくて手渡しです。どっちでも同じなんだけど、落ちたから)。
身体がこのような細身だったり単純線なのは、ファミコンかスーファミ等のゲームキャラにならないかと思ってたから、当時流行りのシンプル系も目指した絵柄を書いてみたって事ですが、ディフォルメキャラではあっても、細いのはドット絵にはむかない、と当時プロの人にも言われました。
こういうデザインの方法論は自分的に試行錯誤して、この時には相当シンプルになるよう意識していました。成田氏の言葉の影響も大きかったのですが・・・。で、このデザインの首から下が後にエ*ァにひっぱられたわけです。このまんまだと判らないんだけど、白黒だとわかりいいと思う(画像)。レオタード的ボディの胸の部分が、白黒コピーでシルエット化するともろプラグ〜のそれになります。(肩のラインとか脇のラインとか特に。このデザインの場合別パーツなのは脇じゃなくて股間だけど。首から上は「集積高層街の恋人たち」という原稿のラップガードという別デザインからひっぱられている。そっちはこの89年1月に桃高の部長宛の年賀状に描いて送りました。IG等にも当時コピー渡してます)
・・・額に赤い球があるのが、使徒的とも言えると思う。要はリアルプロポーションで書いてみれば判り良いと思います。
経過は色々あるのかもしれないけど、結果が似ちゃっちゃーだよね。現在でもかなりこの件は悩み中。
後に「恐○惑星」って作品で恐竜人の顔にもなってしまって。でもあれは目まで書かれてたので、もろ石森氏のカゲ○ターみたいだったけど(笑;)
当時的には成田亨先生の美術教室に入る時に自分の書いたものって事で見せたんですが、先生と奥さんに言わせれば「漫画としてはよく書いてるし頑張ってると思うが、絵的にはまだまだだ」って事でした。「線じゃなく面や立体で考えろ」と。それこそ自分的には習いたかった事だった。
ちなみに成田氏が後の個展で書いたオリジナルヒーローの「天空人E」というのは、アルカイックスマイルにこの89年版E9(後のE9等)と同じような「ラインが流れる形の目をしています(逆三角形ではないが)。「天空人」シリーズのデザイン自体、確かサ*ライズの依頼で書かれたものだったと聞いたんだけど(違ったっけ?)
先生は「天空人」を生徒に今の氏が考えるヒーローデザインとして(せめてその時できるファンサービスとして)提示していたんだと思います。張り出した側頭部や身体のラインもめっちゃカッコ良かった。
手伝い参加した個展の時に見せてもらって「カッコいい(;▽;)!!」という気持ちを伝える事が出来たので、それは本当に、幸せでした。
◎ Eg変身前、リピテーショナー(ラフ)、彼の宇宙惑星(88年5月頃)
Eg(E9)89年版の変身前の姿と、多次元空間ビークル、彼の宇宙惑星です。
変身前のイメージのこのラフは、先行して88年に描かれてます。
Egの89年版は、それ以前とそれ以後のEgと異なり、人間にも変身する宇宙人という設定でした。
厳密には多次元空間異星人です。今でもその設定を引き継いでいるのが、000やαααだったり色々ですが、
いくつかの会社など(ゲーム会社など)にもこのイラストはカラーコピーして送っていて、知っている人はいるかも。
88年当時のものを発掘していたら出てきました。
その後男女コンビになったのですが、男女コンビにした時点でちょっと物語が違うなと思ったり。
いいキャラなのでいずれ使うと思いますが。
ここまでの原稿と頭身などが違うと思いますが、この頃は絵柄模索期で、いわゆる自分なりのデフォルメ絵柄を探っていた時期です。
リピテーショナーは、多次元空間移動ビークルですが、バイクに比べると極めて軽く、自転車みたいなものです。
彼の宇宙惑星は、主人公にとってのおうちみたいなもので、言ってみれば、「星の王子さま」の住んでいる星のイメージです。
こういう風に大きく惑星を描くのは、タマゴちゃん当時もアニメやSFイラストや図鑑の影響でやってましたが・・・
うる星にもあったし。(ダーリンが死んじゃうの回とか)。
で、84年1学期に多分桃山学院高校の漫画研究部からも参加した、大阪など地区の漫画研究会(当時桃高は部だったが)の合同団体展があって、
その時にも自分の描いて展示した水彩画の1枚は、宇宙の惑星に、透明な水色の身体をした青年(上半身は裸)と、
R2D2かハーロック系みたいなロボットなどを並べて、空は宇宙に大きないくつかの別の惑星、って絵だったので、
(その絵がいまだに桃高漫画研究部にあるとは思えないが)割とそういう宇宙や惑星を描くのは昔から好きだったりします。
「よくこんなきれいに惑星描けますね!!」って後輩にほめてもらってうれしかった記憶があります。(この項2023 5/7 19:19)
(イラストクリックすると拡大表示されます)

◎成田亨先生の所で描いた習作群(89〜91?)
初代ウルトラQ・マン・セブンシリーズのデザイナー、成田亨氏の所で絵を教えてもらってた頃の物。最左が「貝殻とレモン」。氏の所で絵を習った最初の作品で、自分の座っているポジションからだと想像もつかないダイナミックな貝殻(笑)なのですが、実際に正面からはこんな感じです。この静物画は生徒全員描いていたと思います。全部パステル画。
中央と右は「大江山の鬼」の彫刻の製作時(終わり頃?)原型製作用に立てていたプレハブを、他の目的にも使わないともったいないという事で、某美大のモデルさんを呼んで絵を描いたり彫刻を作ったりした時の物です。・・・まだ下手だったので作品自体は気に入ってません。修正がかなり必要と思います。この人は先生の「ポニーテールの女」という作品のモデルさんでもあります。実際好きなタイプの人だったけども。クロッキーは彫刻用の物で、早く描くことを要求されたので、下あごのラインなど気に入ってませんが、これはこれで取っておいてます。というかかなり下手。
最右が教室でラスト30分に行っていた授業のテキストや個展パンフ等です。色彩論・構図・芸術論・西洋のモンスター・仏教芸術・特撮美術等々ですが、特撮美術講義は主に口述筆記が多かったのでそれはそれで別に手帳にノートしてました。仏教芸術講義は先生もかなりだれていた;鬼製作と重なってたので先生的にもそれどこじゃなかったらしい・・・
他にもありますが、教室に置いてきたのもあります(モリエール・ブルータスやミロのビーナスのお面、円盤投げ像のトルソーのデッサンなど)。
後、月謝袋。うそつき呼ばわりされるので・・・
後に大江山の鬼の彫像の手伝いをしたりもしたのですが、その時先生は「うちは借家だから住み込みの徒弟制度のような事はできないのだけれど、これだけ君たちは美術や彫刻の製作法等学んだのだから自分は成田亨の直弟子だと名乗ってもいい、ただその後は自分次第なので、そこまでは私も面倒は見れない(笑)」と、鬼の手伝いをした数人の美術教室生は言われてました。
(※詳述: 自分は日野市内のプレハブでの彫刻原型→石膏→FRPの作業の中では最大日数のスタッフでした。多分実働で50日前後手伝っていますが、金曜日だけはあいまいな扱いにしてもらっていたので、記録に残ってるのは最大でも40日前後だと思います。これは先生とあまり一緒に作業する期間が長いと先輩生徒の嫉妬を受けていじめになるという他生徒の意見によりますが、僕がいないと作業が進まないので仕方がなかったし、そもそも89年中はどんどん手伝いが減っていって、年末になるに従い、はかなり、僕の担当日は僕と先生の2人きりの孤独な作業日も多かったです。
成田氏が大江山鬼彫刻の生徒を弟子扱いしていたのは、元々成田先生がその頃CMセットの仕事のプレゼンテーションかなにかの際、某飛行機工場に僕と2人で、いわゆる飛行機用の金属製のハニカム材(先生によるとウルトラのセットの時もその工場でそのハニカム材を調達したらしい。ウルトラセブン1話の司令室入り口シーンの上に使われたりしている素材と思われる。)をもらいに行った時に、当時からのなじみの工場の責任者の方に、「お弟子さんですか?」と僕の事を聞かれて、それを先生が「はい」と言ったので、自分は弟子と呼ばれ、その週の金曜?か何かに成田氏とタケ笠、イイ田氏も「自分たちと森本が弟子という事に決まった」と言って、それで大江山鬼彫刻のメインスタッフ(自分は結局、粘土原型の衣担当リーダーで、石膏型、FRP型までのメインでしたが)の弟子認定がスタートしました。自分(森本コージ(浩司))を含めて、基本的に成田氏が弟子扱いにしていたのは、つまりは森本、タケ笠氏、イイ田氏、サ藤氏、サカ田氏という事になります。それ以外の弟子扱いの人達の事はその人達に聞いて下さい。あえて自分は言いません。また、成田教室生徒は酒呑、茨木、星熊の内、酒呑だけの作業に関わっていて、ほかの2体の造型などを手伝ったのは、美大系の先生のつての人です。
ちなみに、上に書いたような弟子扱いの人々は当初基本的に僕以外はほぼ渋谷教室の人々で、僕の次に手伝っていたのは多分、僕より先に僕への日野の先輩らの仕打ちを見かねてやめてしまったイシバシ氏だと思います。日野の先輩たちは日野リーダーのN先輩の仲間たちでしたが、基本的にみんな社会人だったので、日野市内での半年近くの作業中は、酒吞童子骨組を組んだ最初の1日と、CMセットを徹夜で組んだ日と、ラストにFRP型を徹夜で組んだ日以外は、手伝えた人と全く手伝えなかった人に開きがあります。一番手伝ってくれていたY岡先輩(プログラマー)が京都の往復も含めて21日、W氏も京都入れて十数日?(これは本職が生鮮食品系の人なので、石膏やFRPを氏の場合は扱えなかった)N先輩は日野の作業は平日は1日しか手伝えませんでした(映像効果系業界の人で多忙。京都のブロンズ作業には参加。)、別のプログラム会社勤務でやはり多忙な別の先輩の場合は、自分への嫌がらせをした人でもありましたが、日野作業の平日は1日も手伝っていないです。でも必要な車の運転や粘土石膏FRPなどの材料調達や材料量計算など(微積分ができないと無理だとの事だったけど、難しすぎて結局半分作った所からは概算になった)はしてくれていましたが、日野での実作業には関わっていません。
僕が京都にいけなかったのは、弟の入院と病気によります(以降現在まで弟はそのハンデにより在宅です。途中5年ほど再入院していましたが弟とは現在も仲良くしています)。その病気の内容については、成田教室で知っていたのは成田夫妻だけで、それで、自分の事は京都作業に参加しない、という前提で、日野作業は自分は本当に頑張りました。頼まれた日はフルに出ていたので。 2021_2/11 )
他に弟子がいないからおまえたちが弟子だ、という形かもしれません。その点のみ「眞実」(成田亨遺稿集)の編者は違う事書いてるかなぁという部分はありますが(あれだと結局元弟子だと名乗った全員が嘘つきになっちゃうしね)・・・それだけ「大江山の鬼」の仕事が先生にとっては大事だったという現れかもしれません。教室に入ったいきさつはこちらの各項を参照
(2016_2/8 18:14 画像にメルアド入れました。)
(※詳述: 可能性としては、あの「眞実」という遺稿集の原稿は、80年代後半から書かれていたので、その項が書かれた頃には上記の大江山鬼彫刻の作業も始まっておらず、弟子認定の時期より前だったため、そこがすっぽ抜けてしまっていた(遺稿集編纂した人々が誰だかわからないので意図的除外が無いとは言えないが)可能性が、一番高い、と書いておきます。一応。それで元弟子生徒たちが辛い目にあってるわけね。 2021_2/11 )
(追:) 成田美術教室をやめたきっかけを以下書きます。(2chで偽弟子呼ばわりされたので書きますが・・・)
成田美術教室には日野教室と渋谷教室があったのですが、僕は日野教室でした。
元々教室が始まったのは日野、渋谷の方が後で、日野は先生と最初に知り合ったリーダー格の人(今の回顧展スタッフ)とその友人たちの勉強会的教室で、渋谷は都内在住の人向けで、も少し真剣な人たちがそろってました。受講費は日野が月5千円、渋谷が月1万円でした。約2年ちょうど位習っていました。
自分は模型情報の成田氏の連載の初期からの読者で、大江山の鬼の彫刻では多分日野での彫塑用粘土原型>石膏型>FRPの作業では一番参加日数が多かったです。多分朝から夕方5時半の終了まで、最低週2回で、合計35〜45日位参加していたんじゃないかと思います。先生の所のシフト表に記録残ってると思います。(酒呑童子のみ。茨木と星熊の両童子にはどの生徒も一切参加していません)その作業で最も参加した3〜4人は、先生から「成田亨の弟子と名乗ってもいい、その先の事は君立ちしだいだが」と言われていました。本当に嬉しかった事を覚えています。タケ笠氏やイイ田氏、それに僕です(これはB5原稿ページのようなイラスト群を先生が見て、それなり自分が頑張ってた事を知ってたって事もあったからだと思います)。日野教室の人達の半分は殆ど仕事を持っていたので、段取り作業には参加していますが、中途の作業はあまり参加していません。材料調達のみだった人もいます。先輩たちは骨格等の組み立てなどには精力的に参加していました。(その頃の件はこちらのルナティックの項を参照)
その作業の最後が無理な夜間のFRPパーツ(PP?グラスファイバーの布やタルク剤使ってましたが)組みたてで、僕は真っ暗で懐中電灯の数も限られる中、上にまだずれの残るパーツを置いて、FRPにひたしたファイバー布片での接続作業を行ったため、どうしてもくっつく前にフチがめくれてしまったり荒れた所が出てきてしまいました。先輩たちはその日がFRP接続はじめてだったので、そちらを考えると、ひっくり返すわけにいかなかったのです。
しかし、京都の偉い人に見せる事がすぐ1〜2日後に近づいていたため、出発時刻も翌朝6時半と決まっていたためとりあえずでも接続せざるを得ず、結果先生とタケ笠くんイイ田くんの二人が、現地でそこを修正するはめになり、先生に自分は怒られました。自分は元々京都に行って寝泊まりする事ができなかったので、
その後、先輩たちは、1週間休みをとって京都のブロンズ製作の手伝いをしたのですが、その中で(医療系ソフトのプログラムをやっていたが原型等作業に一切携わっていなかった)某先輩たちが、目録に名前を記す際、わざと日野教室で最多手伝いの僕の名を外しました。
京都に行けないからこそ多く手伝ったのに「京都にこないのが悪い」と言われました。
タケ笠くんとイイ田君(この人はプロの仕事もやっていた。後に二人はワ●フェスの鬼工人ブースの造型者になりました)は京都でもほぼ最後まで手伝っていたのですが、彼らは渋谷のサ藤君や、サカ田君たちの名を書いたのに、日野教室の生徒たちは僕の名を書かなかったのです。僕の努力は日野教室の他の人達のものにされました。
弟子と名乗っていいといわれたタケ笠君やイイ田君も、僕に「この事を渋谷教室の仲間たちには言わないで欲しい。君への日野の人たちの仕打ちを考えると、到底僕らは弟子を名乗れない。あと、来たくても来れなかった人もいるわけだから」と言いました。渋谷教室のヒエラルキーは、日野よりも激しかったそうです。彼らの大方は新しいものを認めません。成田作品こそ絶対なのです。それでも後にワンフェスで鬼スタッフのチーム名「鬼工人」を背負ってブースを出してた彼らを、本当に頑張ってるなぁ認められたんだなぁ、と自分は思いました。ですから渋谷の人たちは、彼ら(と僕)が成田氏に弟子と名乗っていいと言われたことも知らないのです。
その後もそういう軋轢は微妙にあった気もします。先生からは名前をその後入れたといわれた気もしますが、やっぱり入っていなかったという話も別の人から聞きました。自分は京都に現物をまだ見に行った事がないので確認ができないままです。
現在2chで偽弟子攻撃されている理由はそこです。先生の著作の「眞実」に彼には弟子はいなかった、と書かれている事と、2ch住人の主張する、目録に名前が無い事(どうも結局そうだったらしい)が、僕への偽弟子呼ばわり攻撃と非難の的になっています。もし目録に僕の名が書かれているのにそう書かれたなら、僕の名前がないと2chに書いた人間は、そのはぶりの件を既に知っている人物だ、という事になります。
その件で、僕への仕打ちを見ていた、僕の1週遅れで入った青年(この青年(イシ橋氏)は僕の例の脚本も読んでたので僕が頑張っていたのを知っていた。このままでいいのだろうかと何度も相談を受けました)は、努力をしても認められない教室の序列性(元々成田教室は日野から始まっているので文句を言えない。先生からは渋谷に来るかという話もあったのですが、日野教室に自転車で行ける距離に住んでいるのに、渋谷に行くのも変だというのがあったので、僕は日野に通い続けていた)と今後に疑問を抱き、その結果退室しました。僕は彼を引き止められませんでした。彼だけではなく、目録に名前を書いてもらえなかったショックは自分も本当に大きかったです。他の日野の手伝いの人の合計参加日数の2倍がんばってたわけですから。自分の努力には何の意味もないんだな、と思い、努力と芸術性とは関係ない、とも思いました。教訓です。
90年の10月には自分の祖母の病気がわかり、翌年の母の誕生日になくなりました。祖母の記憶に残る僕の努力が加わった作品は、もっと優しいものであるべきだったとも思います。某ソフトハウスでのCGのバイトをはじめたのは49日が過ぎた後です。
(なぜそっち方面に行ってメカデザインとかの方向に戻らなかったのかというと、当時サ*ライズとの企画で先生が「天空人」というアニメヒーローものを作ろうとしていたのだが(90年の個展でデザイン画が展示されてました)、結局それは現実化せず、先生ですら企画を現実化できないんだったら、僕もやめておこう、って気分になったからです。自信をもてれば良かったんだけど、それらが原因で無理だった)
その時に、先生がヌードデッサンをしたいのだが、参加しないかと言って来ました。自分も参加はしたかったのですが、僕に輪をかけてしゃべる人が新人に入ってきたのと、日野の人たちのやる気があまりなさそうだったために、参加人数が先生と僕も含めて4〜5人になってしまいそうだと言われました。モデル料は1日約2万円4人で割って、それを4倍して月2万+月謝5千円。しかしまだ脱落者が出るかもしれない、あの新人も参加するかもしれないという事も言われました。「今は仕事をやってみたい」と言って、僕は教室をやめました。考え方でいうなら、渋谷に転校(?)するやり方を取れば、僕の負担は人数分割分少なくなった可能性もあるのですが(渋谷の生徒は約20人位なので)・・・。しかし、先生は僕に対して「破門」を口にした事はなかったです。教室内では判りませんが。だって、その時には日野教室の半分は、ヌードデッサンに参加しなかったわけですから。「やる気がない」のレベルで言えば、みんな同じだったことになります。先生も彼らが休むのを引きとめる気が無かったようです。
(※詳述: この間の事を詳細に書くなら、成田氏はイシ橋氏の教室退室を機に、社会人で年長者でありながら、業界やプロを目ざしていた自分たちを杜撰に扱いしかし授業を真剣に受けない先輩たちに対して実はかなり怒っていて、日野教室を閉じてその教室を僕やイイ田、タケ笠など弟子生徒たちと某渋谷リーダーたちの彫刻(造型)専門教室にしようとしていました(僕にも彼らにも内々に了承を取り付けていたのです)。しかしその為には先輩たちがやめなくてはならなくなる、その意味でのフルイを予定していたようなのですが、今度は自分の祖母が入院してなくなってしまったので、自分もゲーム業界就職を目指したり(試用期間でダメだったが。成田教室を退室する時にはダメと決まっていて、先輩たちは教室に戻ればいいとも言っていたので、退室自体とゲーム云々とは関係ない)自然と退室する事になりました。そもそも自分が成田氏のところで学べる期間(親に許されていた当初の期間)は、当時のアニメコミックなど専門学校の授業期間の2年でした。それで僕が成田教室に入ったのが、1989年6月、やめたのが1991年の7月ですから、自分は2年ちゃんと授業も受けて成田氏の彫刻スタッフとして仕事もした、って事なんですね、予定通り。それに、自分は鬼彫刻のプレハブはそのまま残して、次の仕事を請ければ自分も仕事をするよ、と言っていたんだけど、自分だけがスタッフに詰めてもみんなも来れるとは限らない。鬼彫刻同様で、借地代もかかるしって事でプレハブは取り壊されてしまい、結果、自分は成田教室をやめたというのもあります。成田氏と仕事はしたかったけど、仕事場が消えてしまったので。 2021_2/11 )
(あと(笑)、自分には入室してすぐコクロウというあだ名が先生につけられました。これは丁度その頃アナウンサーの森本毅○氏がスキャンダルを起こした時に、タケロウとぱっと読めなかった事によるのですが、それ以来スケベのコクロウって呼び名になってしまった。で、鬼を作っている間も教室中も延々とそういう扱いで、それはカオス的鬼を製作するテンションを上げるためと割りきるし(先生はプレハブを鬼の棲み家に見立てて作品を作っていた)、やっぱ自分のそういう面を直視しようとは思ったんだけど(バイトもそういうバイト)、着衣モデルの方や上の彫刻のモデルさんの前でも前例としてそういう呼び方をされてたわけで、モデルさんがやっぱそういう目でこっちを見てしまい緊張するし、どうにも冷たい目で見られてしまう。次のヌードモデルの人にまでそういう目で見られるとまともに絵を描けるんだろうか?とか、色々あったわけです。先生のせいだけではないのですが。はっきり嫌だとは言えないままだったので)
その後はひっちゃかめっちゃかでしたが・・・数年後電車内で先生と話をした時、新宿駅についた後で尻を叩かれて送られた事を思い出します。CoolToysの連載での、読者からのおたより特集の号を見た時、自分の手紙が掲載されているものを見て、自分はわかってもらえたんだ、とばかり思っていました。
でも、2chの連中は、僕は先生に昔から嫌われていたんだ、と言っています。
もしかしたらそうかもしれない、と思える事も、確かにあります。以後、先生や、過去の美術教室の方々への(直接的な)応援は、一切差し控えたいと思います。
(とりあえず・・・・・・ 2007/4/8) ← まぁ、先生とそのご家族に対しては、直接の応援はしていないけれど、関節的には結局応援してきたことになってしまってますね、結局の所。(2021_2/11)




◎ 劇場版パトレイバー系写真同人誌『Still;』 90年
( 同人誌。コピー製本。コミケにて販売 300円)
・・・ここがLycos、Tripod,Angelfireによってウィルスゲートにされてしまってるので、メインサイトのMO-Cute(http://www.geocities.jp/lecto_000/)の方でも後ほど紹介しますが、
90年のコミケで販売した劇場版パトレイバー同人誌です。
単独参加としてはこれが僕のコミケ初参加でした。僕の個人サークル初参加は写真本だったわけです。イラストはあまり載ってません。無くはないですが十数枚前後のカットのみです。
ページ解説も後にMO-Cute内でしますが、内容は「パトレイバー東京写真集」以外にも某ロード的しゅみのパト辞典(を一人で作ってる)や、色々です。
劇場版パトレイバーで舞台になった町及び、警視庁特車2課のある(と設定されている城南島)に写真撮影しに行って作った本で、
とにかく本文より写真撮影に時間がかかってしまった本です。コピーは何と秋葉原近辺で当時の父の会社でしました。どっひゃあ。
パトレイバーの特車2課は大田区城南島にあるという設定で、自分は子供の頃から大田区に親戚がいて縁があったので、それで結構はまったような所があり、
それでこの写真同人誌ではあえてパトレイバーの方法論に乗った写真撮影で作っています。
フィルムは普通にネオパンSS使用してます。ただ、そのままコピーでは、当時のコピー機ではグレー階調がつぶれてしまうので、確か赤ブーブーさんでモノクロ写真を網焼きしてもらい、それを原稿に使ってます。
ちなみに中には当時自分が自作していたフルスクラッチの零式AV(AV X-0)も1ページのみ掲載しています。
この零式は表面処理にまで到ってない状態ですが、とにかく鼻を意識したフェイスとシルエットにこだわって、
なんとなく旧日本軍の零式艦上戦闘機が想像できるフォルムにしてみました。
自分はこの零式以上のフォルムの立体の零式はいまだ見た事ないと思ってます。
どちらかというと、出渕氏の画稿というより、映画のフォルムに近いですが、結局自分のオリメカ的なフォルムも入ってきていて、
このフォルムはこれ以降の自分のオリジナルメカをデザインする時に意識し続けています。
5枚の零式の写真も・・・当時自分はミノルタのα-7000を使っていて、そのズームレンズを使って撮影しました。都内写真も全部基本的にα-7000です。
「Still;」というタイトルは、「未だ」という意味で、つまり将来消えていく風景は未だ東京にある、位の意味です。あとはスチール写真との掛詞ですね。
当時自分はX68000(EXPERT)を入手したばかりで、実はCG合成記事なども考えていたのですが、
ぺけろっぱーが512X512という変則的な大きなドットの画面しかいまだ使えず、到底自分が目標とする画像をスキャンや描画機能を使っても使えない事が解り、
結局まともにCG機能を使って描画出来たのは表紙のHOS起動画面と、本文の辞書部分くらいのもの・・・でした。
零式はこの後にコミケ参加が受かれば完成→複製するつもりだったのですが(画像の零式も耳と両腕は左右FRP用樹脂で複製している)、
主催の念書的申し込み書、主に威圧的内容の申し込み書(当時のコミケの定款住所だか申し込み住所にヤ●ザがいるから来るななど書かれていてその事かもしれないが(それはもっと後か?)、結構コミケ準備会の悪質性にとって痛い事を書いたんだと思う)への不満など書いてしまったからか、次の回のコミケは受かる事は無く、(この同人誌がパトレイバーという警察を扱ったリアルな写真本だったからかもしれない、ていうかモロに写真畑の本だったからかもしれませんが)
実際その後僕がコミケのサークル抽選に通る事はなく、なので僕のコミケでの同人参加は、90年代後半からのコミケの委託スペースのみです。
コミケ当日、この本は一応55冊売れたんだけどねー・・・初参加コミケで写真同人誌55冊販売って、多いんだろうか、少ないんだろうか??? 全部数は100冊前後だったです。あとはMO−Cuteサイトにて。 (2014_12/17 18:09-19:23)
(写真をクリックすると拡大表示されます)
随時upしていきます。
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